フランスで著名な知識人になる一つの方法は、無意味な説を取り、それを前進させる丸ごとの本を書く一番になることだ。この水準によれば、ケペルは卓越している。というのは、彼は戦闘的イスラームが下り坂であるという途方もない考えを採用し、この考えを信用できるように支持する事例や議論で、376ページを何とか埋めようとしているからだ。同僚の一人であるオリヴィエ・ロイが丸八年も前に『政治的イスラームの失敗』を発表してパンチを食らったことを考慮すれば、彼の唯一の欠陥は、オリジナル性の一定の欠如である。両方の学者は、記すに価することだが、フランスで多く担ぎ上げられ、深く影響を及ぼしている。(対照的に、アメリカ人が招集してきた最善は、ぼんやりした学究人による薄い論文だった。)
ケペルの見解は、ロイのとは異なっている。ロイが、同一の戦闘的イスラームの潮流のほぼ二つ(イスラーム主義とネオ原理主義と彼は称した)間で多くの識別をした一方で、ケペルは、その代わりに、戦闘的イスラームを却下するための社会学的前提を見出す。基盤を拡大しながら、1980年代にはうまくいっていたが、1990年代には崩壊した。若い都市部の貧者と敬虔な中流階層を一緒に継ぎ接ぎしてしまった同盟を、イスラミスト達がそのまま保つ能力のなさのためである。
2001年9月11日に関してはどうかという問いに対して、これは、戦闘的イスラームの「漸減」を確証したのみだという「挑発」だったと、ケペルは陽気に答える。事実、それは「破滅的な暴力という発作で、下り坂にある過程を逆転する試み」に他ならなかった。
全ての現実に食ってかかる説に加えて、ケペルはまた-著名なフランス知識人でなかったならば-自分の経歴を恐らく運命づけるであろう、その種の事実上の大嘘の連発をなす。ここに、序文からの少数の馬鹿げたヘマがある。1980年代の十年間全体を(イラン・イラク戦争と呼ばれた小さなエピソードを忘れて)「サウジの君主制とホメイニーのイランの間の権力闘争によって影を投げかけられた」と彼は見る。1980年代にソヴィエト連邦の崩壊に参画するためにアフガン人に援助供給するという目標を、彼は誤って米国政府に帰している(その目標は、かなりもっと限定的で防衛的だった)。彼は、「ウンマ」がイスラーム法によって支配される単体だと信じている(これは、すべてのムスリムの集合のことである。「イスラームの家」(Dar al-Islam)が、彼の言わんとした意味である)。それに、どういうわけか彼は、アル・カーイダの長期的な対象のために、ムスリム世界における活発な支援の徴候を見出すことに失敗している。(2001年の9月と10月の間、彼はどこに潜伏していたのか、尋ねてみるがいい。)