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(アントニウス・アラファト・サイードがパレスチナ人になる)よい経歴移動
ダニエル・パイプス http://www.danielpipes.org/12220/ Translation of the original text: [Antonius, Arafat, Said Become Palestinian:] A Good Career Move 有名なパレスチナ人の知識人であるエドワード・サイードは、結局判明したのだが、実はエジプトで育った。だから、エルサレムにあった「美しい古い家」から汚らわしいイスラエル人達が彼を追い出すという繰り返された主張は、終わっている。彼は当時、カイロの贅沢なマンションで暮らしていた。サイードは長らく自身の物語を、パレスチナの悲劇の象徴として表現してきた。休暇で、まあ言ってみれば、物語を幾分か鈍らせる一方で、親戚を訪ねるためだけに、エルサレムで彼自身を見出したと知ったのだ。 それ自体は予期せぬことではあったが、あるパターンの一部として見られる時、この偽装は追加的意味を帯びる。少なくともその他に二人の非常に著名なアラブ人が、エジプトで生まれたのに、注目すべきことには、偽ってパレスチナ人だと主張してきた。
1921年、彼はエルサレムに留まり、英国委任統治領パレスチナで行政官になった。彼の伝記者の言葉では、「パレスチナ人として自分を見なすようになった」そして「パレスチナ市民権を獲得した」。1930年にアントニウスは英国雇用を去り、エルサレムのムフティであるハジ・アミン・アル・フサイニの非公式アドヴァイザーとパレスチナの政治指導者になることで、新たな忠誠を提示した。1939年の重要なロンドン会議で、アントニウスはパレスチナ代表の重要なメンバーを務めた。つまり彼は、パレスチナ人になるために、エジプトとレバノン系のアイデンティティを放棄した。フォウアド・アジャミの言葉を借りれば、彼は「アラブとユダヤ人の間の闘争に彼の全忠誠」を与えたのだった。 数え切れない折に、ヤーセル・アラファトは、エルサレム生まれで子ども時代をエルサレムで過ごしたことについて、聴衆を楽しませている。嘆きの壁に隣接する石の家で生まれたこと、その後、エルサレムのサウド伯父と共にどのように暮らしたかを、彼は好んで想起する。サイードのように、アラファトは自らを、イスラエルが存在するようになったために財産や居場所を喪失した者として、シオニズムの犠牲者として表現する。だが実は、クリストフ・ボルタンスキィとジハン・エル・タフリという二人の勇猛なフランスの伝記者達が、(『ヤーセル・アラファトの七つの人生』1997年という書で)数年前に暴露したところによれば、「パレスチナ氏はナイル河で生まれた」。 フランスの研究者達は、ある楽しい発見物語を語っている。彼らはカイロ大学へ行き、1956年に都市工学科でムハンマド・アブド・アル・ラウフ・アラファト・アル・クドワ・アル・フサイニという人の登録について、知らずに尋ねた。これはアラファトの誕生名で、エジプトの事務員にとって何も意味しない。その事務員は、「ぐらぐらする木の机に座り、黒革で縛られた埃っぽいファイルの束でほとんど全く隠れ」て「最もプロフェッショナルな方法で、埃の層を吹き飛ばし」た後、その記録を手渡している。時の経過で色褪せた青いインクで、その研究者達は、探している男を見つける。ヘリオポリスのバロン・アンパン通り24Aで暮らしている男は、「カイロで1929年8月4日に生まれた」。手にしたこの情報で、彼らは国家登録所へ走って行き、アラファトの実際の誕生証明書を見つけ、それが日時と場所を確証する。 その後、アラファトは28歳までカイロで暮らし、エジプト人として身分を確定した。彼の最初の政治所属は、パレスチナ人に密接したエジプトの学生組織だった。彼は、1948-49年にイスラエルに対するエジプト人グループのために戦った。そして、引き続きエジプト軍に奉仕した。彼が初めてモスクワへ旅行したのは1968年で、エジプトのパスポートによってだった。アラファトは全生涯で、エジプト人のようなアラビア語を話しているが、彼の経歴を時折妨害するものだ。1967年に最初に彼と遭遇した時、ある伝記記者は回想している。「西岸の人達は彼のエジプトのアクセントや振る舞い方が好きではなかったし、異邦人だと思った」。 エジプトで育った三人の男が、20世紀のさまざまな時点で-1920年代、1950年代、1970年代-パレスチナ人になることをどのように決心したのか。答えは、多分、政治的に野心のある活動家にとって、パレスチナ政治がエジプト政治よりも遙かにもっと多くを提供するという事実にあるだろう。知識人というものは、プロファイルをずっと高く上げることができる。もし、サイードがエジプトの諸問題を唱導していたならば、彼は今日どこにいただろうか? そして、政治家というものは、権力への道を遙かにもっと広く見出す。もしアラファトがエジプトを彼のライフ・ワークにしたならば、今日では、何も考えずに賛成する国会の引退議員かもしれない。パレスチナ人であることは、換言すれば、一つのよい経歴移動なのである。 2012年3月23日追記: 中東報道研究機関(MEMRI)が今日投稿したのは、ファティ・ハンマドの演説である。ハマスの「内務国民安全大臣」がアル・へクマ・テレビで演説をしている。ガザ地区での燃料不足を巡ってエジプト政府を批判する過程で、彼はその地域の人口が外国出身であることを主張している。
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